つづき
ところで、「今の人は、人生そのものを包み込んでくれる ような大きな物語(神話)の存在しない世界を生きている」ってどういう意味?

それはよく言われる話で、
つまり自分が何のために生きればいいか、それを教えてくれるような絶対的な「物語」が存在しないってこと。
かつては、神とか国家とか、超越的なものが存在していて、それに付随するかたちで「善き生き方」みたいなものがある程度はっきりしていた。
今は「何を信じるかは人それぞれ」っていう考え方が一般的になっているから、何が「善い」のか、何が「正しい」のか、ひたすら悩み続けなければならない。

宗教を盲信して思考停止に陥るよりは、苦しくても考え続ける方が個人的には良いと思うんだけど、人には「救い」が必要だというのも事実。とくに死にかかわる場面では。
あらゆる価値が相対化している現代では、なかなかそれが難しい。

こういう考え方は評論の世界では共通認識なので、オリジナリティはないよ。
「大きな物語」っていうのは評論でよく出てくる比喩だし。


ふ〜ん、そうなんだ。「大きな物語」ね、、、はじめて聞いた。
それじゃあ、過去に肯定的な意味を見いだして「許す」っていうのは、具体的にどういうことなのかな?


「許す」はちょっと説明が面倒…。
たとえば絵を描いている時に、自分が引いたある線が「失敗」に見えたとする。そのとき取る行動は大きく分けて2つあると思う。
ひとつは、その線を消す。あるいはその絵を描くのをやめる。
つまりネガティブな行動。
もうひとつが、ポジティブな行動で、その線を「許し」て 絵を描き続ける。

ここでの「許す」は、単に線を消さないということだけではなくて、自分の想像の外からやってきたその線を、積極的に生かしながら絵を完成にもっていく。線の「とらえ方」を変え、その線の存在によって絵の完成のイメージが変わっていく過程そのものを楽しむ。


そういえば、どうみても「失敗でしょ」と思える絵も捨てないで、ちょこちょこ手を加えて「進化」させたり。。。高校の時の授業ノートも有効活用して、空きスペースにメモを書いたり、上から新聞のキリヌキとかいろんなもの貼ったりして、「別もの」にしてたね〜。

もともとこの「許す」は、こんな風に絵を描くときの考え方だったんだけど、生きることにも応用できるな、と思ったわけ。
自分の想像力とか判断力が及ぶ範囲を超えた出来事が起きたとき、それを受け入れる方法として。

ただ、注意してほしいのは、起こった出来事に対して
「これは良いこと」と盲目的に自己暗示をかけるのとは違う、ということ。
重要なのは、起こった出来事を活かすようなかたちで、次の行動を決定していくこと。
起こった出来事を、次の行動を決定する理由に変換することで、立ち止まらずにとりあえず前に進めるのではないか。

まあ現実はそんなに単純じゃないので、うまく実践できるかどうかは不明。


いや、もしかしたら現実は意外と単純かもよ・・・。
【2013/02/27 】 呼吸するもの | comments(0) | page top↑
「普通」をめぐる考察
paper_dance「脱落って言い方はよくないよ」
離れて暮らす息子1が、電話の向こうで反応した。
大学受験をやめ、家にこもっている息子2のことを話していたときのこと。
「高校に行っていれば、普通は受験コースに乗っかって、あまり考えずに大学に行くけど、普通じゃない道を選んだことは悪いことじゃないと思う」
「大学に入れば普通は通用しないしね。休学している人も結構いるし、1年くらい休んだってどうってことないよ」と言う。
「大学に行くことに疑問を持ち、立ち止まってしまったTのほうが、もしかしたら普通なのかもしれないし‥」

子どもたちがまだ幼かったころ、わたしはよく「みんなと同じじゃつまらないじゃない」と言っていた。みんなが持っているテレビゲームがうちにはなかった。長男が高校に入学したとき、携帯電話を持っていなかったのは彼だけだった。
「普通」であることがいいとは、ちっとも思っていなかった、はず。
なのにいま「脱落」ということばが頭をよぎり、「普通」じゃないことを受け入れられないでいる。

「普通」ってどういうことだろう?

「普通」とは、その他大勢が属している中間の領域。
「普通」より「上」に思えるときは安心するけど、「下」に感じられたら不安になる。
「普通」の概念はあいまいで、ひとそれぞれ。
「普通」という基準は、比較することで生まれる相対的なもの。だから良いとか悪いとか、上とか下とか、強い、弱いといった基準がなければ、「普通」も生まれない。


ついでに息子1の意見も聞いてみることにした。

「普通」という感覚は、ある程度多くの人が同じ行為をしている空間で機能する。ただ重要なのは、同じ行為に見えてもそれを行う人の中身はまったくバラバラであるということ。
だから「普通」という外面的な評価基準は、行為に対しては有効だけど、それを行う人間にまで当てはめることはできない。
「普通であるかどうか」は、人の内面とか人の価値とはまったく関係がない。

自分の価値というのは、結局のところ自分で見いだしていくしかない。まして他人の価値を判断するは不可能に近い。
これが真実だと思うけど、それでも人は自分の価値や他人の価値を決めたくなることがある。「普通」という考え方は、この欲求を満たすために生まれたのかもしれない。

「普通」であること、あるいは「普通」より「上」であることは、人に一定の安心感を与えるけど、「普通」を信じることは、一方でその「普通」が機能する狭い空間を一歩出てしまえば、今まで自分を支えてきた基盤を一気に失うことを意味する。
大切なのは、人は皆バラバラであることを自覚したうえで、自分の決定に自信をもって前に進んでいくことだと思う。

dance_dance今の人は、人生そのものを包み込んでくれるような大きな物語(神話)の存在しない世界を生きている。
自分の生の意味を外部に求めることが難しい世界で、外部とつながっていない自分にどうやって自信をもつのか、これはすごく難しい問題だと思う。

この問いに対する今の自分の考えは、自分の過去を見つめ、「許す」ことによって先が見えてくるのではないかということ。
「許す」という言葉のニュアンスを伝えるのは難しいけど、自分の過去を単なる偶然の蓄積だと考えずに、そこに肯定的な意味を見いだしていくことに近い。

この前、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を読んでいて、この小説は、神なき時代に何を信じて生きていけばいいのかを、主人公が求めていく話なのかな、
と思った。


・・・ふむむ、なんだか哲学的になってきた。
(つづく)
【2013/02/25 】 呼吸するもの | comments(4) | page top↑
震災復興チャリティーコンサート
ひょんなご縁から、秩父で開催される『東日本大震災復興チャリティーコンサート 平和への祈り』の印刷物(チラシ、ポスター、チケット、当日プログラム)の制作をすることになりました。

主催者は、秩父で内科クリニックを経営されているお医者さん。
1年前、仙台での学会に参加した際に東日本大震災の爪跡を目の当たりにして、自分の趣味を活かして復興支援ができないものかと考え、チャリティーコンサートを企画されました。

学生時代はコーラス部でバリトンを担当、現在もマイクを持たない日はないというほど歌うことが大好きな医者と、プロの演奏家で構成されたドクター・ジェイコブズ・バンドに、特別ゲストとして歌手のアグネス・チャンもジョイント。被災地の現状を伝える写真やトークも用意された、盛りだくさんの内容となっています。

原発ありきの、実態をともなわない「強い経済」を打ち出すアベノミクスにおされ、被災地や原発事故への関心が薄れつつある昨今。
お近くの方、興味を持たれた方は、お問い合せを!

concert0323 ●日時:3月23日(土曜) 13:00 開演(12:30 開場)
●場所:秩父ミューズパーク 音楽堂 tel.0494-25-1000
●入場料:前売2,000円
当日2,500円
●問合せ:高橋内科クリニック
tel.0494-27-0155


※コンサートの収益は、気仙沼市仮設住宅等支援基金に充てられます。


←クリックで拡大
【2013/02/11 】 鑑賞するもの | comments(0) | page top↑
| home | → older posts